状況は絶望的である。運動が全体として退潮し続けているだけではない。それに応じて方法も衰えた。ユーモアと力強さが消滅し、息苦しい形式的な手続きだけが蔓延している。選挙の外にあった、広大で豊かな行動の領野は完全に忘却された。正しいことだけを真面目に唱えてもたらされたのは、目を背けたくなる糾弾と、無力に開き直った自己満足だけだった。そして、「革命」とつぶやくことすらおこがましく感じられるようになった。
それでも、革命は、断片的な諸実践のうちで、か細いながらもその水脈を保ってきた。各地で戦闘的な運動が歯を食いしばりながら継続され、新たなチャンスの到来が待ち続けられてきた。地域を地道に組織化することで、街のなかにじぶんたちの生態圏がつくりあげられてきた。国家や市場と折衝しつつ、革命、あるいは生そのものを継続するためのインフラストラクチャーが形成されてきた。自然に根を下ろして、採集や農耕によって生命がひとつずつ組みたてられてきた。
私たちは、こうした断片的でありながら息の長い諸実践を肯定したかった。「あなたはただしいのだ」と力強く断言したかった。そして、私たちはTARDUSをつくり、理論によってそうすることにした。そして、 こうした諸実践が夢見る革命は、ついに理論においても統制を口走りはじめた「マルクス主義」や、戦略を疎かにすることあるいは何もしないことの自己弁護に終始し続けている「アナキズム」の共犯からなる日本語の言説空間には、ほぼ見当たらない。だからTARDUS第一期は、こうした諸実践が共有する方向と理論的に呼応する「コミューン」をテーマに選んで、海外の記事を翻訳した。
「コミューン」と聞けば、たとえばヒッピーたちのコミューンを思い浮かべるかもしれない。しかし、私たちがあらためて「コミューン」という概念で強調したいのは、具体的な場所に根ざした生の共同的な組織化という側面である。例えば、この夏に日本語にも翻訳されたクリスティン・ロス『コミューン形態』でも、1968年のフランスのナントの都市ストライキ、アメリカの「自己防衛のためのブラック・パンサー」、日本の三里塚など、決してヒッピー・コミューンではないような例が挙げられている。つまり、コミューンは、自然豊かな場所はもちろん、都市においても可能な革命論として呼び戻されたのである。
私たちは、生きていくうえでさまざまなことをする。会社に行って稼ぎ、家賃を払って住む場所を手に入れて些細な趣味をもつ。スーパーで米を買い、たまに気晴らしのために居酒屋に出かける。ひとによってはSNSで政治にもの申したり、休日にデモに出かけたりする。そして、じぶんを政治的な人間だと思う。コミューンは、こうしたモデルを問いなおすところから始まる。そうやって生活と政治が分離するところから、資本主義が私たちを包みこみ、蝕んでいく。スーパーの惣菜で食卓が埋め尽くされることは、タワマンによって住む場所から追い出される前触れである。真面目にデモで正しい意見をいくら表明し続けても、残念ながら統治や資本主義を破壊することはできない。デモの手前にある生活とデモの向こうにある直接行動こそが、それらを破壊することができる。
まずは、生活を問い直そう。時として誤認する者がいるとはいえ、むろん「ていねいな暮らし」がしたいわけではない。そうではなく、真に革命的な生をコミューンでいかに形成するのか。仲間で集まるスペースを借りる。あるいは、買う、建てる。そのための金や、食い扶持の稼ぎ方を一緒に考える。できる限り、プライベートを照れずに開いて、支えあっていく。その過程で、それぞれのリソースを持ち寄ることに慣れていく。いずれ店を始めて地元の新しい仲間と出会う。仲間にはならなそうなひとともうまくやる。国内外のコミューンからの来訪者を迎えて新たな戦術を学ぶ。時には食糧を育てるコミューンへ手伝いに行く。その旅は仲間たちの絆を深める思い出になる。形成されてきたコミューンに侵入しようとする資本に対して、再開発阻止の運動が起きる。運動を支える食事は、あのコミューンから提供される。その現場には、今まで交流してきたひとたちが次々と押し寄せる。
コミューンは、自律的空間の創出と空間相互の組織化をつうじて、客観的には資本と国家の双方を解体する運動の新たな形態として、主観的には生活と政治の区別の解消として現れる。こうしたコミューンの主観的・客観的なリアリティの双方を描き出すというのが、第一期の目標である。それは、日常生活、「プライベート」、社会運動、組織化、場所(ローカルとグローバルの区別)といった、さまざまな要素の問いなおしを含んでいる。そして、シンプルな答えが出る。コミューンとは、もっと自由に、もっと強く、もっと美しく、もっと面白く生きながら、総体として革命的と形容するほかない生き方の集団的な実験である。
こうした観点から、それぞれの記事を簡単に紹介しておこう。
漠然とであれ、とにかくいまの世の中が嫌になった者は、「インハビット」にあたるべきだろう。アメリカで書かれ、世界中に爆発的に拡散された——今でも世界中のインフォショップ・ZINEストアで見つけることができる——この絵本のような楽しいテクストは、コミューンを建設するための具体的なガイドの役割をつとめてきた。まずは仲間となるお互いをみつけること、一緒に過ごすスペースをつくること。そしてスペース同士のネットワークをつくり、それぞれの場所で蓄えられた力で、資本主義から離脱しながら反撃していく。コミューンが革命へと発展していくことの、ゆたかなイメージを与えてくれる。
生活や人生を問題にすることそれ自体に躓く者がいれば、アガンベン「ギー・ドゥボール」から始めるのがよい。自死を選んだ友人ドゥボールに手向けられたアガンベンのテクストでは、生活と政治の区別を突破しようとして最後までその区別に拘ってしまったという逆説のうちに、ドゥボールの絶望が跡づけられている。生活の余った時間で運動に関わるのではなく、生活と人生の総体、生そのものを革命的にすることこそが、私たちの問いである。
学生運動に関わり、次のステップを模索している者は、ビフォ「サボタージュと自己組織化」に目を開かされるかもしれない。ガザでの虐殺はつづいているが、それに抗議する全世界的な大学のエンキャンプメント運動があったことは忘れられつつある。1968年の学生運動に参加し、その後も休むことなく運動に関わりつづけてきたビフォの警句は、学生運動が失敗してしまう理路を明かし出す。そして、運動をどうつづければよいかということを、自己組織化という言葉をヒントに、示唆してくれる。運動とコミューンのあいだを埋めてくれるテクストである。
従来の運動と比較したコミューンの革命性に関心がある者は、ロス「場所に根づいた諸闘争のための一つの共通な地平」からはじめて、ファレル「コンポジションの戦略」を読むべきだろう。このふたつは、第一期のメインテクストとして、コミューンと革命という主題に正面から取り組むものである。アガンベンの記事が、日常性からコミューンへ、ビフォの記事が運動からコミューンへとわれわれを引き渡し、インハビットがコミューンのイメージを与えるとすれば、ロスとファレルの記事は、敗北した運動を経てたどり着いたコミューンからふたたび革命を開始するテクストである。
ふたつの記事に共通する主題は、「コンポジション」——広い意味でのコミューンが生成するときに、そのコミューンの中で育成されるひとつの結合——である。社会運動も、それがコミューン的になってこそ、コンポジションをつうじてそれぞれの差異を乗りこえるチャンスがうまれる。そこではじめて、ひとつの革命の地平を育てることができる。コミューンとそこで培われるコンポジションの技法こそ、私たちの革命の、あるいはその革命を認識するための可能性の条件を構成しているのである。