ギー・ドゥボール:政治と生の再定位のために

Giorgio Agamben

ジョルジョ・アガンベン(2025年7月15日)

訳者序文:
以下は、英語に抄訳されたジョルジョ・アガンベンの近著『友情』からの訳出である。これ自体は未邦訳の書籍であるが、訳出した部分は『身体の使用』プロローグのすぐれた要約になっている。また、彼の自伝『書斎の自画像』にも、類似した記述が見られる。内容について言えば、これはまずギー・ドゥボールとの個人的な思い出に関わるエッセイであるといえるだろう。しかし、強調しておかねばならないことは、これが同時に新しい政治へと到達するためのマニフェストでもあるということである。
 とはいえ、アガンベンがここで具体的なプログラムを提示しているわけではない。気の利いた現状分析を与えているわけでもなければ、革命を約束する形而上学を説いているわけでもない。いわゆる「政治」への言及といえば、マルクス主義の党派を当てこすって、民主主義の悪口を言うといった、私たちにお決まりの身ぶりを、ドゥボールのエピソードとして想起する箇所くらいである。それでもなお、これは根本的に政治的なテクストなのである。
 そうは思えないところが、出発点である。なぜなら、私たちは、政治と私的生活を区別することに慣れすぎてきたのだから。たとえば、街での行動から帰り、じぶんの部屋に入って鍵をかけた途端、そこで政治は終わる。はじまるのは、会ったこともない隣部屋の住人と変わらない生活である。私的な生活が政治から排除されてきたことで、助けられてきたのは左派の方だったのではないか。他方で、政治的領域がどうしようもなく行き詰まっていることも明らかである。その結果、やればやるほど無力感に苛まれる政治と、卑小な幸福を抱きしめるだけの私的生活という閉じられたサーキットで疲労と絶望が募るばかりだ。
 これに対してアガンベンは、この区別を生産する装置自体の働きを止めようとする。とはいえ、政治を生活に持ちこんだところで、互いを窒息させるだけで生活は逃げてゆくだろう。逆に、生活を政治に持ちこんだところで、保守的妥協をもたらすだけである。アガンベンは、真の停止弁を〈生の形式〉という概念に見いだした。両者の区別を失効させるような、もはやそこでは区別が成立しないような〈生の形式〉のうちに、真の政治的な要素があるはずだ。かれは、それを見いだすために、ドゥボールと過ごしたパリの思い出へとさかのぼっていく。
 そして、〈生の形式〉のありかが、そのままで革命的であるような私的生活であることが突きとめられる。ただし、ドゥボールはその問いを前にして砕けた。アガンベンも、まだこれ以上の準備があるようには見えない。ただし、私たちがかれらとともに理解しているのは、たしかに私たちの胸を打ち、ここには何かがあると確信を抱かせるのは、生と革命の区別がつかなくなったひとたちの私的生活であるということだ。そして、この区別をなくそうとする試みは、伝統的にコミューンと呼ばれてきたということだ。

 「はじめて会ったその時から、ぼくが君たちふたりをどれだけ愛しているのかを、そしてぼくが君たちを忘れることなど決してないということを、とにかく君にはわかっていてほしい」。ギーがみずから命を絶った後、アリスにこのような言葉を書き送ってから、30年近くが経った。ギーとはじめて会ったのは、1980年代の終わり、モンパルナスにある高級ホテル、ルッテリアのバーだった。ブルジョア的な贅沢にも悪くないところがあって、ギーはそれをちゃっかり楽しむ術を知っていた。だから、かれは、友人たちと会うのにそこを使っていたのだった。そのときのことは、いまでも完璧に思い出すことができる。ぼくたちは、当時ですら悪化しつつあった政治的状況について、細部に至るまで互いの考えをただちに理解しあえた。それも、ほんの少しの言葉だけで。これが可能になったのは、ぼくたちが同じ明晰さへとたどり着いていたからだった。ギーの方は、汲み尽くされてしまって、かれで最後となった芸術的アヴァンギャルドの伝統から。ぼくの方は、詩と哲学から。その時、ふと気づけばぼくは、間違いに導く無意味な思想や理論家たちに言及しないまま、政治について話していた。言及する必要を感じなかったのだけれど、そんなのは初めてのことだった。(後でもらった手紙のなかで、ギーは、うかつにも称賛されている理論家のひとりについて、「アルチュセールというどうしようもない錯乱者」と冷静に退けていた。)いわゆる「社会運動」を生き延びさせかねない奴らを体系的に排除していたことも相俟って、そうできたのだ。いずれにしても、ぼくたちふたりに明らかだったことがある。それは、新しい政治に辿りつくのを妨げる主たる障害のひとつが、マルクス主義的党派(マルクス本人ではなく! もはやこの言葉自体が使い古されているけれど!)と労働運動の残滓にほかならないということだ。そいつらといえば、じぶんたちが闘っていると思いこんでいる敵の共犯者になっているのに、それに気づきもしない。党派のやつらは、承知のうえだろう。だから、よりタチが悪いのだが。

 それから、バック通りにあった彼の家で会うようになった。そこでは藁に座る学生たちを教えたマギスターや17世紀の神学者かのような、彼の苛烈なまでの繊細さに感心させられっぱなしだった。その繊細さでもって彼は、資本とそれについてまわるスターリン主義の影(集中したスペクタクル)と民主主義の影(拡散したスペクタクル)という双子を皮肉まじりに貶してみせたものだった。彼が部屋の真ん中にあるチェスターフィールドのソファに座りながら、足場を取られて筆だけで天井につなぎとめられている画家というイメージを通じて、共産主義者のリーダーたちがおかれた状況を鮮やかに描いてみせたさまが、いまでも目に浮かぶ。

 しかし、私たちのあいだにあった本当の問題は、別のところに横たわっていたのだった。つまり、より身近であると同時に見通しにくいところに。ギーは、私的な生活では不十分であることにはっきり気づいていながら、多少自覚しつつもほとんど素朴なままに、じぶんやじぶんの友人たちの実存には唯一的かつ範例的なところがあるとも確信していた。私が気になるのは、ギーのなかでの折り合いのつけ方である。ふさわしくも『分離の批判』と題された初期映画のひとつのうちですでに、彼は「それについて私たちが有しているものといえばみじめな記録だけであるような私的な生活の内密さ」を思いおこしていたのだった。さらに、彼の初期映画や『称賛の辞』のなかで、彼はやむことなくじぶんの友だちの顔、じぶんが愛した女、じぶんの住んでいた家(フィレンツェにあるカルダイエ通り28番地、シャンポーにあった田舎の家、パリのミッション・エトランジェール公園——じっさいのところバック通り109番地)を私たちの前にさらしていた。ここには、シチュアシオニストたちが解くことのできなかった一種の根本的な矛盾がある。それと同時に、ほんとうに政治的な要素は、私的な生活がもつ、この伝えることもできない、ほとんど馬鹿げたような内密さのなかにこそあるのだという漠然とした意識もある。内密なもの、私たちの生の形式は、あまりに内奥にあって身近すぎるために、それを掴もうとしても、私たちに残されるのは、不可解で浅ましい日常生活だけである。それでも、まさにこの曖昧で雑然とした現前こそが、政治の秘密を、あらゆる自伝やあらゆる革命がそこで難破してきた「統治の奥義」の裏面を含んでいるのだ。そこからシチュアシオニストが名前をとった「状況の構築」という言い回しにしても、「現実の人生という地図の北西航路」のようなものを見いだすことこそがかれらの務めだったことを暗示している。しかしギーといえば、スペクタクルの社会における実存の疎外された形式を分析するとなるとあれほど有能で抜け目なかったのに、じぶんの生の形式を伝え、この内密な要素に正面から取り組んでその神秘を解こうとするときはいつも率直で無防備に見えた。そうした内密な要素と、彼は今際の際まで、旅を共にしたのだった。アリストテレスがゾーエーという名のもとで都市に包含しつつ排除した、その内密な要素の政治的意味こそ、私が同じころに問いはじめつつあったものにほかならなかった。私もまた、別のしかたで、現実の人生という地図の北西航路を探していたのだ。

 或る夜のパリで、イタリアにいる多くの若者たちはまだギーの書くものに興味をもっていて、彼の言葉が聞けるのを待っている、とアリスに伝えたところ、「実在しています(exister)。それで十分なはずでしょ」と返されたのだった。この「実在しています」とは何を意味していたのだろうか。もちろんその頃に、かれらはバック通りとシャンポーにまたがって、電話ももたずに隠居生活を営んでいた。(私がパリにつけば手紙を書いて、その手紙には夕食への招待が返ってくるということで了解があったのだ。)いわば、かれらの実在は、かれらの私的な生活の内密さに全面的に押しならされていたのだ。ならば、そこでの「実在しています」とは何を意味しえたのだろう。あらゆる意味で西洋哲学に基礎的であり、純粋に存在することである実在は、成り立ちからして生命に結びつけられている。アリストテレスが「生き物にとって、存在することは生きることを意味する」と書き、数世紀後にニーチェがこれを「存在すること。私たちは生きること以外にそれについての表象をもちあわせていない」と明確にしたのだった。

 彼がかつて私に語ったことによると、ギーはじぶんのことを哲学者ではなく、戦略家だと考えていた。それでも、今日と変わらず当時も、あらゆる生気論を越えて、存在することと生きることがもつ内奥の絡みあいを明らかにすることは、たしかに思考と政治にとって避けて通れない課題だったのだ。

 ギーは、同時代人をなんら尊重していなかったし、かれらに何も期待していなかった。彼にとって政治的問いは、「玄人か、カモか」というはっきりした二択に還元されていた。(私には馴染みのなかったこのスラングを説明するために、彼はアルベール・シモナンの小説『カモが噛みつく』を勧めてきた。彼は、これがとくにお気に入りだったのだ。)また、ギーは一貫して、多読することなく書物と粘り強く付きあうタイプの読者だった。私の「『スペクタクルの社会への注解』の余白に」を読んだ後に彼がよこした手紙では、私が引用した数人の著者について「残念ながら私は知らない異国風の人間と、私が読もうとも思わない四、五人のフランスの人間」と言い及んでいた。じぶんの仲間である人間たちに絶望してしまえば、じぶん自身にも絶望することになるという事実は変わらないのだが、ギーには、どうしてもこの絶望を克服することができなかったのだ。彼が初期映画のひとつで、じぶんと友人たちにふれて、その出会いは、まるで「より強度の高い生、ほんとうの意味ではまだ見いだされていない生というものから発せられた信号」であると語ったときですら。そして、私的な生活の内密さは、時が経つにつれて、ますます捉えがたくなり、おそらく彼には耐えがたいものとなったにちがいない。たほうで、私的な生活の内密さは、歴史的な人生のなかに刻みこまれていた。私的な生活の内密さと歴史的な人生のあいだでのギーの優柔不断は、そこには一挙に解決してしまったと思いこむことなど誰にもできないほどの困難があることを表している。今日、ギーが追い求めた内密な生は、さらにいっそう捉えがたいものとなった。それでもなお思考が、この特異な実存のもつ内密さのなかに隠された、真に政治的な要素を見いだすことができてはじめて、政治はその抽象性から脱することができるのであり、個人的伝記もその愚かさから脱することができるのである。