サボタージュと自己組織化:ガザ虐殺と学生運動から考える

Franco "Bifo" Berardi

フランコ・”ビフォ”・ベラルディ(2024年5月7日)

訳者序文
 以下につづくインタビューは、イタリアのアウトノミアの思想家であるビフォが、パレスチナ連帯運動について語ったものである。現在もつづくガザでの虐殺は、あらゆる意味で資本主義にもとづくジェノサイドである——それを積極的に駆動する力も、それを消極的に止めることができない力も、資本に基づいていることは確かだ。このような虐殺に対抗するために、さまざまな運動が試みられてきたのはたしかだ。スタンディング、不買運動、投資撤退の要求。とりわけ、このインタビューが行われた2024年5月には、世界各地の大学で、エンキャンプメント運動が広がっていた。反資本主義闘争と反戦運動という点では、この状況は、1968年ともつながりをもっているように思われる——じっさい、そのつながりは、コロンビア大学の占拠に見られるように、闘争の現場において意識的に実践されているものでもあった(これについては「われわれはまずコロンビアをとる(First We Take Columbia)」と題された匿名のパンフレットを参照)
 68年の経験も踏まえつつ——学生運動が社会的生産関係の変容に失敗してきた反省を踏まえつつ——ビフォは、パレスチナ連帯運動について考える。問われているのは、われわれ全員に突きつけられる問いだ。ガザでの虐殺をほんとうに止めるためには、何が必要なのか。ビフォがそう問いかけるとき、まず思い起こされるのは、運動が消費者的なものに陥ることの危険である。消費者としてのわれわれは、資本の生産の流れに対して「意見」を表明することができるが、本質的に受動的で個人的な存在である——それは、商品についての「お客様のご意見」を個人的に表明するようなものである。ガザでの虐殺への倫理的な意思表明、その「レトリカルな一日」、スタンディング、投資撤退への要求、不買運動は、消費者的な運動の範囲にある。このような消費者運動的なものが最も形骸化すれば、SNSでパレスチナへの連帯をアピールして閲覧数を稼ぐような芸能人の姿が現れるだろう。ビフォが論じる通り、こうした運動はどこまで行っても絶望の表明にとどまり、学生時代が終われば徐々に忘れ去られていく。エンキャンプメントが終わり、虐殺を止めることなくガザ連帯運動が小さくなってしまった現在からみれば、じっさいに起きてしまったのは、消費運動化であったように思われる。
 運動が、受動的・個人的な意思表明へと——「学生時代の思い出」へと——切り詰められてしまう傾向があるとすれば、われわれはどうすればよいのか。これは、厳しい現状の総括を踏まえてなお、あらためて問われるべきであるように思われる。ビフォによれば、運動は、生産者・労働者的なものでもありうる——生産に能動的に関与するものとして、資本に対して直接的に介入することができる。Googleでのストライキのように、労働者・生産者は、直接的に資本に介入することができるのであり、受動的・個人的な(消費者)運動を、能動的・団結的な自己組織化へと向かわせることができる。例えば、大学にキャンプを建設するだけでなく、そのような学生ストライキを大学外の人びとへと開くことで、たんなる学生運動をこえて、ゼネラルストライキへと拡大するという可能性(前掲First We Take Columbia参照)。資本の回路が虐殺を駆動しているとすれば、われわれが向かうべきは、資本主義の回路を切断すること、その切断の技法、あるいは、切断を可能にする生活形式、そして、切断を拡大させていく組織化ではないか——ビフォはそのように挑発する。あらためて勝利するために、次は勝利するために。

(インタビュアー)「ニューヨーク市警がキャンパスに踏み込む24時間前、コロンビア大学の学生たちはハミルトン・ホールを占拠し、その抗議運動を1968年の反戦運動とさらに密接に結びつけました[1]。あなたは1968年のボローニャの学生運動の活動家でもありましたが、現在と当時のつながりについてどのように見ていますか?」

現在のパレスチナ連帯と1968年の出来事との類似性は顕著です。しかし、重要なのは振る舞いの類似性ではなく差異でしょう——異なる背景、そして参加学生の異なる期待です。

イスラエルによるジェノサイドが始まって以来、ほとんどの若者たちがパレスチナの犠牲者の側についたことは明らかです。S N S、街角、大学、そして世界中の都市の壁にいたるまで、各所で「フリーパレスタイン(Free Palestine)」が叫ばれてきました。これは、シオニストのレイシズムと植民地主義に対する、倫理的な応答です。倫理的な観点から見ると、現在の状況は分水嶺と言えるでしょう。すなわち、白人至上主義の勢力(北側の帝国主義者)とそれ以外の人間との間の分断は不可逆的であるにもかかわらず、倫理的な多数派は、まだ政治的な力を構成するには至っていないのです。

この観点からすると、今日の状況は1968年とは異なっています。68年の反戦運動は、一定の程度ではありますが、社会的関係を変革するような政治的な力へと転換しました。さらに言えば、運動参加者のもつ期待というものも68年とは異なっています。ベトナム戦争に反対していたとき、私たち学生は、帝国主義陣営と反植民地主義陣営とのあいだの権力関係が転覆されることを期待していました。ベトコンと自らを同一視することは、社会主義や解放との同一視を意味していました。もちろん、これは部分的には欺瞞ではあります。とはいえやはり、私たちは、社会的関係を変革し、帝国主義を打倒するという積極的な可能性へと、自らを投げ出していたのです。

現在の学生のパレスチナへの同一化についても同じことが言えるでしょうか?私にはそうは思えないのです。米国とイスラエルのジェノサイドに反対してデモや占拠を行う学生たちは、もちろんハマスと同一化しているわけではないでしょう。また、学生たちは、パレスチナ連帯運動において、輝かしい未来や社会主義的な未来、社会的な解放を期待しているわけでもありません。それでは、現在の抗議の波には、どのような同一化や期待が見られるというべきでしょうか?

私の意見では、学生たちは絶望と同一化しています。絶望は、心理的、そして文化的要素として、若者たちがパレスチナの人びとに同一化・共感する理由を説明するものです。今日の学生の大半は、意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、生の条件の不可逆的な悪化、不可逆的な気候変動、長期にわたる戦争、そして多発している地政学的紛争が核兵器によって激化する危険性といった事柄を予期していると思います。これこそが、私の考えるところの、1968年の運動との決定的な差異です。すなわち、権力関係の逆転というものが見込まれていないのです。

——「学生たちの運動は、投資撤退(divestment)を軸に展開されており、これは反資本主義的で革命的な可能性を秘めているように見えます。あなたにとって、このような学生たちのやり方と要求は印象的だったでしょうか?

この点は非常に興味深いと思います。段階が進めば、投資撤退キャンペーンの範囲はかなりラディカルなものになるかもしれません。しかし、私が理解している限り——私は間違っているかもしれない、というのも私は、今回の蜂起の準備における内部の議論を知らないからです——「投資撤退」の言葉は、民族浄化、アパルトヘイト、ジェノサイドを推進する、ならず者国家としてのイスラエルの特別なケースにのみ言及しているものです。これはまだ——繰り返しになるが、「私が知る限り」ということであって、今後の展開によってひっくり返されることを望んでいます——経済政策そのものの放棄を意味するような、基本的なレベルでの投資撤退のプロジェクトではないと思います。

1968年の文化においては、投資撤退という考えは存在せず、気候崩壊に対する認識も非常に甘かったというのは事実です。今日では、環境への懸念から、知識、生産、消費、経済的選択の関係を変革するような運動がもたらされるかもしれません。この50年のあいだ、学生たちは最も興味深い政治的アクターでありつづけました。なぜなら、彼らはたんに学生であるだけでなく、将来の認知的労働者でもあるからです。しかし、私たちは学生たちの政治的動員をひとつの社会的な主体へと変容させることができませんでした。つまり、知識、技術、生産の関係を恒久的に変革するプロセスへと変容させることができなかったのです。

1964年12月2日、マリオ・サヴィオがバークレーの学生たちに対して行ったスピーチを覚えていますか?マリオ・サヴィオは次のように述べたのです。

ある時、機械の操作が、嫌悪感を催すものとなり、心が病んでしまい、もはやそれに手を貸すことができなくなる!受動的に手を貸すことさえできないのだ!そしてあなたは、歯車や車輪、レバー、あらゆる装置に体を投げ出す。それを止めてしまうのだ!そして、その機械を管理する人々、所有する人々に対して、自分たちが自由でない限りその機械は機能しなくなるということを、示さなければならないのだ!

この言葉には、帝国的暴力の道具となることへの倫理的な拒絶が現れていますが、それとどうじに、認知的労働の自己組織化の可能性への期待も示されています。この可能性はこれまで一度も実現されませんでした。学生たちは、本質的に時勢的情況と結びついたものでしかない政治的動員を、認知的労働者の恒久的な組織へと変容させることは、一度もできなかったのです。これこそが学生運動の最大の弱点です。つまり、学生運動は、今も昔も闘争の最前線ではあるのに、生産/再生産のレベルにおいて、社会的関係を恒久的に変容させることができないでいるのです。学生たちは、大学に籍を置いている間は動員されるのですが、認知的労働のサイクルの中に恒久的な自律の形態を作り出すことは(今のところ)できていないのです。

——「アメリカの大学で起きているこれらの抗議活動は、ヨーロッパではどのように受け止められているのでしょうか?ヨーロッパの学生もアメリカの学生と同様の熱意を持っているのでしょうか?ヨーロッパの大学は、イスラエルや戦争による利益追求に投資してしまっているのでしょうか?」

2日前、私はボローニャ・アカデミーの講堂で招待講演をしました。講演のテーマは、ヨーロッパでの戦争、パレスチナでの大量虐殺、そしてアメリカの大学の動員についてでした。会場は信じられないほど混雑し、学生たちは感情を揺さぶられており、彼らの考えは、コロンビア大学の学生たちが表明したものと一致していました。しかし、私が「イタリアの大学を占拠する時が来た」と言った時、彼らは反応しませんでした。学生たちは、まだコロンビアの運動に参加する準備ができていないと感じました。

自己不信の感覚はイタリアの学生文化に深く刻み込まれており、絶望(鬱)の感情が蔓延しています。なるほど、絶望は、戦争からの積極的な離脱という大きな運動へと変貌できるかもしれません。しかし、私はヨーロッパの大学に多くを期待していません——むろん、私が間違っていたと証明されて欲しいのですが[2]

——「今日はメーデーであり、パレスチナ労働組合総連合——ガザ——はストライキを呼びかけています。アメリカの「ガザ戦争に抗議する作家同盟(Writers Against the War on Gaza)」もストライキの呼びかけに応じています。このように、集合的な労働闘争をガザでの大量虐殺と結びつけることは何を意味するのでしょうか?」

これはレトリカルなものでしかないと思います。メーデーは、少なくともヨーロッパでは、単にレトリカルな一日でしかありません。帝国主義に対する倫理的な動乱と労働運動とのつながりを模索する試みは、もっと深いところから始めないといけないと思います。私たちに必要なのは、デモやストライキの象徴的な一日(だけ)ではないはずです。必要なのはむしろ、資本主義的生産の現在のプロセスにおける認知的労働者の重要な役割、あるいは、技術的発展の主要な傾向を覆す可能性について意識することでしょう。

イスラエルのジェノサイドへのGoogleの関与に反対する、Googleの労働者たちの動員は、たとえそれが少数であっても、象徴的な連帯を示す一日よりもはるかに重要だと思います。象徴的な連帯は要りません。戦争に反対する認知的労働者たちの自己組織化のプロセスこそが必要なのです。認知的労働者たちは、記号資本主義権力の共犯者である一方で、その犠牲者でもあります(プレカリアスであること、精神的な苦痛、孤独)。私の考えでは、これこそが現代における最も重要な矛盾を作っています。倫理的な象徴的動員(それ自体は緊急かつ重要であるのでしょうが)の、その先に進むためには、ポスト学生運動の生活——認知労働者の生活——に内在するような、社会転覆の潜在力を解明すべきです。

——「1968年から学べる教訓とは何でしょうか? 68年についてのあなたの経験に基づいて、アメリカの学生へのアドバイスは何かありますか?」

私が与えるアドバイスなどはありません。私は、現場に参加していない政治的アドバイザーを信用したことは一度もないのです。しかし、1968年の運動から私が得た教訓というものがあるので、それを現在にも当てはめて考えてみたいと思います。大学(および教育システム全般)は、知識にアクセスする場であると同時に、知識を生み出す場でもあります。大学はまた、間接的にも直接的にも、記号(セミオ)工場に影響を与えることのできる機関でもあります。ここで記号工場とは、テクノロジーを生産し、コミュニケーションを照射するような大企業を意味しています。現在、そして未来において最も緊急の課題は、大学から発生する拒絶——企業資本主義と軍事システムによってもたらされる徹底的な非人間化への拒絶——を記号工場にまで拡大することです。

大衆文化の生産連鎖に対するサボタージュ、軍事用A Iの生産連鎖に対するサボタージュ、サボタージュと自己組織化、知識の軍事利用に対するサボタージュ、そして最後に、資本主義から脱出して社会生活を自律化させるプロジェクトへと、認知的エネルギーを組織化すること。これらは巨大なプロジェクトだということはわかっています・・・巨大すぎるかもしれません。しかし、大学占拠は、大きなプロジェクトを立ち上げるには最良の環境です——そこは、人々が自己教育によって、自己信頼と自律へと至る場所となるでしょう。


[1] 「まずわれわれはコロンビアを取る:一九六八年四月の占拠運動からの教訓」(日本語訳オンライン

[2] (原注)このインタビューが行なわれた週から、ヨーロッパの多くの都市で、キャンパス内および公共の場にキャンプが出現した。これにはボローニャ、ローマ、アムステルダム、バルセロナ、ベルリン、パリなどが含まれ、リストは日々増え続けている。