コンポジションの戦略:反グローバリゼーション運動以後の組織化の理論

Hugh Farrell

訳者序文:
以下に訳したのは、われわれの友人ヒュー・ファレルがILL WILLのために書き下ろし、北米のアトランタの森の防衛——Stop Cop City運動——を分析した、北米の活動家によって参照されつづけているテクストである。それが主題とするのは革命運動の組織化の問題である——これは、ありとあらゆる場所で、切迫した問題となっているように思われる。というのも、じゅうらいの組織化の戦略は、ことごとく崩壊するか敗北してきたからである。われわれは革命運動をどうにかして組織化せねばならず、その組織化の戦略——いかに組織化するかの問いへの応答——を打ち立てねばならない。そうでなければ、勝利の地平は現れない。
 伝統的マルクス主義の影響のもと、戦後の運動はほとんどの場合、「労働者」のアイデンティティに基礎づけられた組織化——階級闘争——を戦略とした。しかし、すでに60年代から明らかになりつつあったのは、「労働者」のアイデンティティの崩壊である。ありとあらゆる主体による活動が労働として全面化したとも言えるし、あるいは、資本との対決が労働とは別の場面で全面化したとも言える。いずれにしても、現代の多様な集団による革命運動の動員は、「労働者」性によって統一することができなくなった
 ポスト「労働者」の運動こそが、反グローバリゼーション運動をはじめとする、21世紀初頭の革命運動だった。そこでは、「労働者」によって代表されない多様な集団が集まり、従来とは異なる戦略と戦術を実践した。そこで現れたのが、「戦術の多様性」を軸とするような、水平的な戦略である。多様な集団が、多様な戦術として自由に参加する。かつての運動が、「労働者」やその党によるヘゲモニーを前提とした垂直的なものであるとすれば、21世紀の革命運動は水平性をその核とした。しかし、本論考でヒュー・ファレルが苦々しく指摘するのは、こうした水平性の戦略が敗北したということ、しかもその水平性ゆえに敗北したということである。水平性と多様性の戦略は、「集合的な戦略や組織化の可能性を事実上放棄」するものであるために、運動全体の勝利の地平を与えることができない。各集団の戦術の調整が、全体の勝利よりも優先されてしまうのである。
 このようにして、現代の革命運動における組織化の問いは、労働者のヘゲモニーによる垂直性、戦術の多様性に基づく水平性の崩壊ないし敗北のもとで、われわれに突きつけられている。どうしたら、勝つことができるのか。この問いに取り組むうえでファレルが依拠するのは、現代のテリトリー的闘争——具体的な土地に根ざし、その防衛を目標とする闘争——である。テリトリー的闘争は、ここ日本を含む、惑星のいたるところで展開されているように思われる。三里塚を含む空港建設反対運動、反原発運動、沖縄の反基地運動、そしてつぎつぎと現れている各地の反開発・反再開発運動。
 具体的な分析は本文を読んでもらうこととして、ここでは(ファレルが引用するクリスティン・ロス『コミューン形態』の議論も参照しつつ)三つのポイントに絞って、コンポジションとテリトリー的闘争の結節点を示しておこう。
① テリトリー的闘争におけるコンポジションの必要性
テリトリー的闘争においては、アイデンティティの異なる多くの集団がひとつのテリトリーに住まうことになる。そこでは、ある種の必然性をもってコンポジションが形成される。異なる思想やアイデンティティをもつ集団が、まさに同じ場所で生活していくために、そうした差異をすり合わせて勝利の地平を掴もうとする。ロスによれば、生活空間の共有こそが、ZADにおけるコンポジションの技法を洗練させることとなった。とはいえ、ファレルによれば、(典型的には農村における)ひとつの生活空間の共有だけがコンポジションを形作るのではない。アトランタの事例を通じて、ファレルは、都市部での運動を含めたコンポジションを論じている。
② 抵抗ではなく防衛
ロスによれば、コンポジションに基づくテリトリー的闘争は、積極的(positive)な地平をもたらす。まさにこの場所を防衛する運動は、権力への抵抗運動とは質的に異なると、ロスは論じる。抵抗は、あくまでも権力の論理が先にあってそれを止めようとする否定的な(negative)な性格をもつ。対照的に、防衛は、運動が依拠すべき価値を積極的に提示することができる。「やりすぎはよくない」ではなく、「それはわれわれの価値に反する」と主張することができる。
③ 具体性と普遍性
テリトリー的闘争は、しばしば、「飛び地」の運動のように語られる。ひとつのローカルな、田舎の運動に過ぎないのだ、と。これはメディアだけでなく、左派の理論においてもしばしばそうだ。しかし、ロスやファレルは、明確にこの「飛び地」の形象を否定する。防衛をとおしてコンポジション的に形成される価値は、むしろ、グローバルな問題を開いていくだけでなく、次々と異なる運動を繋いでいく。エコロジーや土地を巡る問題の政治化は、まさにテリトリー的闘争が開いている——ことの詳細は、ロスやファレルのレポートを参照されたい。
 三つの論点を踏まえ検討されるべきは、テリトリー的闘争とコンポジションをいかに開き、いかに拡大していくかということになるだろう。ロスから問題設定を引き継いだファレルが展開するのは、まさにこの点であるように思われる。テリトリーの防衛の論理を鍛え上げる。そして、テリトリーを、農村へと、都市へと、大都市へとつぎつぎに拡大していく。さらに、テリトリー同士を接続していく。これこそ、ファレルが示す、革命的組織化のビジョンである。

逆流

われわれが生きるのは、恐るべき社会的逆流の時節だ。権力は、コロナ危機で芽生えた貧者の自信を馴致した。同時に、黒人の若者たちが主導した近年の反警察闘争の記憶が、批判的人種理論や警察予算削減運動についての馬鹿げたパニックによって塗り替えられてきた——空想について騒ぐのは無意味だというのに。

恐怖と逆流に満ちたこの時節にあって、アトランタの森の闘争は、鉱業大手のRWEからリュツェラート村を守る最近の闘争とともに、輝かしい例外として際立っている。ふたつの闘争の表向きの目的は特定のテリトリーを守ることにあったが、それらは同時に、より一般的な条件——反動の時代が有する条件——に対する挑戦でもある。ここではアトランタの闘争に焦点を当てるが、以下に概略的に述べるコンポジションのロジックを理解することは、惑星的に群発する他のエコロジー的蜂起を見さだめるうえでも役立つだろう。

アトランタの争点となる総面積600エーカーのうち、380エーカーは都市警察の対蜂起戦訓練センターとなる予定であり、その中にはブラック・コミュニティの模造区画も含まれる。一方、残りの40エーカー(かつて市営公園だった)は、インサイダー取引を通じて、映画産業のサウンドステージ開発業者に売却された。この運動のスローガンはそれゆえ、「警察都市はいらない(No Cop City)/ハリウッドのディストピアはいらない」というものになった。アトランタの運動は、警察予算削減運動——アメリカの政党政治において忌み嫌われる存在——と同じ流れに位置して、ジョージ・フロイド蜂起の記憶を守り、拡張するものである。結局のところ、2020年の蜂起は警察を打ちのめしたというわけである。蜂起への応答として、警察は、訓練施設の建設を企んでいる。そして運動はそれを阻止しようとする。このようにアトランタの運動は、蜂起の延長線にある。

この運動の中心となるのは、デモ(建設会社のオフィスやアトランタのダウンタウンで頻繁に発生しているデモ)よりも、森林でのレイヴパーティー、そしてさまざまなキャンプの集合である。これらの多様なキャンプは、多様な人々が多様な形で参加することを可能にしつつ、当局による捕捉と排除を妨害している。アトランタ市内外からやってきた若者たちが森を行き交い、数泊する者もいれば、1年以上そこに住み続けている者もいる。『ローリング・ストーン』誌は最近、(コロナ時の)大規模な退職ブームの末期に中西部のオフィスワークを辞め、アトランタの森に移住した若者をインタビューした。そこで語られる理由は、同世代の人間にとってはピンとくるものだった。「単純なことだよ。仕事は地獄、森は美しい。重要なのは、私たちを守るものを守り、私たちを破壊するものを破壊することだ」[1]

かといって、占拠された森は、ユートピアからは程遠い。キャンプ内やキャンプ間には、頻繁な衝突がある。例えば、Cop Cityに反対する近隣住民の内でも、運動拠点の駐車場に落書きされた卑猥な反警察スローガンに怒る人もいる。自分たちの子供も森を利用しているのだから当然だろう。ここで参加者は、制度による調停には頼れないのだから、妥協と紛争解決の慣行や実践を育てなければならない。さらに、アトランタの森は、国を覆う反動の波からの避難場所にもなっていることも見逃せない。森にクィアやトランスジェンダーの人々が(統計的に)「過剰なほどに」集まっている理由について、トランスの参加者のひとりが次のように説明している。「他の場所でうまくやっていくのが難しいのだから、ここに集まるんだ。それに、トランスがたくさん入ってコミュニティを形成してきたとなれば、他のトランスにとって魅力的な場所になるのは当然だ」[2]

依然として矛盾と困難に引き裂かれながらも、アトランタの森は、アメリカの政治情勢を反転させたイメージを示すもので、逆流の時代における例外として際立つ。この運動の成功を説明する決まり文句のひとつとなっているのが、運動が「分散化されており、自律的である」という点であり、それは、取り締まりや吸収を困難にし、多様な関与のありようを生み出すとされている。しかし、参加者のレポートでも指摘されるように、この無-構造性は、独自の硬直性と惰性を生み出している。レポートでは、森林保護活動家のウィグリーの認識が引用される——曰く、このような運動においては「動き続けることが、動き続けるための方法だ」。

しかしながら、分散化と自律性は、それ自体では、この運動の弾力性、創造性、そして混沌とした集団的知性を説明するものとしては、十分な原則とは言えない。実際、ウィグリーの言葉は、衰退と危機へと突き進むアメリカの姿を的確に描写している。すでにアナーキーな時代において、分散化と自律性は、ほとんどすべての政治勢力の特色であり、解放をもたらす地平(horizon)として十分なものとは言いがたい。この運動における「分散化と自律性」へのコミットメントのさらに奥深くには、テリトリー的闘争、場所に根ざした運動において浮上してきた、もうひとつの積極的原則がある——コンポジション(compositionである。以下では、『Endnotes』とそれをめぐる議論を参考にしつつ、現在のプレカリアスな時節における、より広範な座標軸を示すとともに、それがなぜ時節的問題として「コンポジションの問い」を引き起こすのかを明らかにする。そのうえで、コンポジションを逆方向から理解するために、テリトリー的闘争について再び取り上げる。ここにおいてコンポジションは、現代の時節に特有の組織化戦略として位置づけられるのである。

孤児たち

『Endnotes』は、その「進め、野蛮人たちよ」——COVIDと反警察反乱の時代についての壮大な分析——において、無秩序な現代における、広大な民衆蜂起と不安に満ちた流血的反応を理解するための枠組みを提供している。『Endnotes』によれば、プレカリティ、政治的正統性の崩壊、そして、アイデンティティと闘争の混乱が加速していくことは、「停滞する資本主義の土台の上」での事象である[3]。もはや成長しないパイのもとでは、縮小し続ける分け前をめぐる恐ろしい競争が引き起こされるだけでなく、積極的な要求の可能性すら失われてしまう。市場主導の発達の可能性であれ、労働者の生の保証という歴史的な労働運動の使命であれ、あるいは、より良い未来を提供するという国家共同体の主張であれ、すべては失われる。モンスターが増殖し、移民やトランスジェンダーの人びとに責任を押し付けようと競い合う。それはパイの分け前をめぐる直接的な競争の一環であるかもしれないし、混乱と恐怖を新たなパニックへと変えるためのものかもしれない。

このような文脈において、蜂起の運動は迷子の孤児である——歴史的な左派の組織的伝統から縁を切られ、過去の労働運動が担ってきた正統性を奪われ、何十年にもわたる資本家への譲歩と雇用不安の増大に甘んじてきた。さらに運動は、「アイデンティティの混乱」に陥っている。社会のさまざまな集団がリソースを奪い合い、徐々にまとまりを失っていく中での、黒人リーダーシップのギャップ——「ブラック・ライブズ・マター」の正式な組織が酷いくらいに作ってしまったそれ——こそがその証拠である。しかし、『Endnotes』は、この混乱や孤児化も、また生産的であると主張する——すなわち、代表や統治といったものがわかりやすく困難であるような、ある種の実験の場を生み出すと主張するのである。既存の伝統や指導力に頼ることができない中で、運動は、常に即興的なモードで存在することになる——創造的であり、統制が効かず、しかも内部において不安定である。これは『Endnotes』が「コンポジションの問い」と呼ぶ問題を引き起こす。つまり、現代の運動は、最初から共有された基盤を前提することができないために、新たな課題に直面することになるのである。プレカリアスな現代がますます多様で異質な集団を生み出す中で、運動は、それらを組織化するための新たな基盤、それらを統合するための新たな装置を生み出さなければならない——そして、これらが発見され反省的に考察されることで、それらは戦略としてのコンポジションを形作るのである。

Hinterland(後背地)』——現代の「階級とコンフリクト」の分析——において、フィル・ニールは、コンポジションの問いに対する重要な回答——不安定な世界的秩序に対抗して頻発する大規模運動によく沿った回答——を提起している。ニールは、反動勢力(右翼勢力)は「血の誓い」によって駆動されていると主張する。右翼においては、人種的および伝統主義的な神話というものが、新たな排除の共同体——資本の停滞と不安定化の中で安全を提供するような共同体——を育んでいる。これに反抗して、反乱勢力(左翼勢力)は排他的な主張を一切行わず、その代わりに、インクルーシブさを守ったまま、反乱そのものへの誓いを立てる。すなわち、マルクスの言う「無政府の党」——さらなる侵食、洪水の拡大以外に何の目標も持たないような運動——に対する「水の誓い」である[4]

この枠組みは、経験的かつ倫理的な力を持っている——それは時節的なレベルで生じているコンポジションの問いに応答するものだ。21世紀の革命運動に参加したことのある人間なら、ニールの言葉が惹起するような陶酔的な連帯、そして、その連帯を方向づける広い地平というものがないことについてよく知っているだろう。この地平の欠如、(もっと優しく言えば)未熟さに内在しながら分析する中で、ニールが「不安定性そのものへの忠誠」を強調するのは当然のことである。そのような忠誠は、インクルーシブなコミュニティをもたらす倫理を確保してくれるし、すでに破綻しつつある資本主義世界の破壊という否定的なプロジェクトへと導いてくれるものでもある[5]

しかし、水の誓いは、組織化の方法についてはほとんど何も教えてくれない。それは、大規模な運動や蜂起においてもたらされる浸食の、倫理的な上澄みにすぎない。こうした蜂起のシークエンスは、資本の停滞と不安定化が進む状況下にあっても、私たちの生活の大半を占めることはほとんどない。こうした(陶酔の)瞬間にのみ注目するとき、私たちの視野は歪み、切迫性と犠牲を強いるような運動を招いてしまうだろう。

ニールにおいては、しかし、その反対のことが懸念される——革命的な蜂起の連続が終わる時、水の誓いという革命派の実践は歪んだものになってしまうという懸念である。ニールは、長期的な反資本主義的スペースを維持しようとする努力を軽蔑している。「資本主義の世界からの真の「オートノミー(自律)」はありえない。あるのはその破壊への忠誠心だけだ」[6]。その懸念は根深く、ニールは、これらのスペースを、「田舎の大衆右翼の飛び地」に喩えている[7]。つまり、左派の自律的スペースが、血の誓いによる排他的コミュニティへと変貌することを示唆しているのである。

ニールが批判の矛先を向けるのは、「スクウォットや占拠における、自己再生産の小さな瞬間」に対するアナーキストの執着である[8]。これらは、保守的な精神——限定された自由の領域を守ろうとする精神——による取り組みであることが多い。それらは、(サブカルチャー、イデオロギー、あるいは運動への参加経験など何でも良いが)すでに形成されたグループに基づくものでしかない。こうした運動の目標は、ローカルでイデオロギー的なモードのもと、踏ん張り、生き残ることでしかない。

ニールによるこの批判の問題は、限定的で小規模なグループによる実験と、ある重要な形態の闘争——テリトリーの防衛——とを完全に混同してしまっていることである。テリトリー的防衛は、ニールが分析するような急速で浸食的な蜂起とは別でありながら、それと同じくらい、現在の時節の条件のもとで発生している闘争形態なのである。

テリトリー

資本主義的成長が鈍化する一方で、鈍化した資本がそれでも気候危機を加速させていることも、ますます明らかだ。世界は停滞しているように見えて、温暖化が進んでいる。資本の成長機械の減速がもたらした経済的不安定性は、気候的不安定性の鏡写しになっている(「人新世」なる議論が語るように)。このような力学は、経済の問いだけでなく、エコロジーの問いを政治化させるものだった——クリスティン・ロスが宣言したように「大地のもとでの生の条件を守ることは、あらゆる政治的闘争の、揺るぎなく新たな意味の地平を構成している」のである[9]。この逆流の時代の恐怖には、その通奏低音として、悪化しつづける気候危機への頭からついて離れない意識がある——その意識は、あらゆる改良主義的延命策を拒絶する力強さをもっている。

第一に、気候危機は、各地域の再開発によってもたらされるエコロジカルな損失の感覚を鋭敏にさせている。第二に、制度の崩壊と失業を経験した世代が、そうした損失に対する意識を高め、とりわけ2008年の住宅危機以降、かつてローカルな問題とされた事柄をさらに鋭く問題化してきた。第三に、反人種差別と反警察運動の経験が絡み合うことによって、再開発反対闘争は、「環境保護主義」の歴史的限界を超えつつある。植民地主義と国家暴力の歴史が明るみに出ることと対応して、こうした闘争はいまやテリトリー的なものとなり、大地と権力にまつわる問いを前景化させているのだ。

テリトリー闘争として、近年のアメリカで最大のものは、ダコタ・アクセス・パイプラインの阻止運動(No-DAPL)である。最盛期には、特定の中心をもつわけではない一万人が、スタンディングローク・スー族の居留地にキャンプを構えた。そこには、植民地暴力にまつわる先住民の記憶、繰り返される植民地搾取や石油流出リスクへの怒りが渦巻いていた——そこで共有されていたのは、「炭素経済は大地に住まう生の条件を破壊する」との確信だった。No-DAPL闘争は、先住民——その多くは(白人)入植者たちの政治から今も疎外されている——の政治的動員としては最大のものである。運動は、資本の回路を超えた社会的再生産についての真剣な実験を必要としただけでなく、キャンプから警察と軍隊を力づくで排除することによって、オートノミーの亡霊を蘇らせることに成功したのである。

とはいえ、スタンディングロックで築かれたオートノミーは、ニールが批判したような静的で閉鎖的な避難場所(飛び地)とは、似ても似つかないものだった。キャンプには、人びと、物資、思想、戦略についての、広範で絶え間ない交流があった——資本の外部にある人びとがそれぞれの経験を持ち寄ってそれを加速させていた。賃金経済から実質的に排除され、広く分散された保留地で最下層の農村労働に追いやられていた先住民たちは、スタンディングロックのキャンプを再結集の場として利用した。非先住民の集団の多くは、プリカリティ(不安定性)の世代の若者たちだった——先住民の権利を守るため、あらゆる人びとを人質にする炭素経済と戦うため、あるいはほとんどの人間がそうであったが、他にやるべきことがなかったために。若者たちのプレカリティ——サービス労働者や奨学金地獄の大学院生としてのそれ——は、貧困へと囲い込まれた先住民の苦境とは構造的に異なっている。とはいえ、何千人もの非先住民の若者たちが、ノースダコタの平原で数ヶ月も野営し、バリケードを築き、現地の儀式に参加し、警察と戦うことができたのは、終身雇用制度が崩壊していたからでもあった。保証も昇進の可能性もなく、金も貯まらないなら、スターバックスの仕事なんて辞めてしまおう。仕事を辞める以外に、倫理的な生き方を守るなんて無理じゃないか?都市の生活には、倫理の可能性なんてとっくに消えている。

暴動とキャンプは類似しているものであるように思われる。両者のあいだにあるメンバー構成の類似——人種的に排除された者と新しいプレカリアートの遭遇——に注目して、ジョシュア・クローバーは『暴動、ストライキ、暴動(Riot, Strike, Riot)』において、両者の同一性を強調する[10]。クローバーにとって、暴動とキャンプは、「流通的闘争」と呼ぶべき共通した敵対性を示す——それは、資本の停滞、緩んだ労働市場、そして生産に対する流通の相対的重要性の上昇によって生まれたものである。しかし、クリスティン・ロスが鋭く指摘するように、暴動とキャンプは、共通の情況から生じたものだとはいえ、互いに異なるロジックと時間性をもつものでもある。ふたつを適切に区別することが必要だろう。

価値転換

ロスがただしく主張するように、テリトリーをめぐる闘争の核心は「価値転換」にある。なるほど、ニールが論じていたように、蜂起の濁流の中では、不安定性そのものこそが仲間を結びつけるようにも思われる——しかし、テリトリー闘争がそれと区別されるのは、そこに何か守る価値があるものが存在するという点である。逆説的なのは、人びとがそのような価値への自信を培うのが、しばしば闘争をとおしてであるという点である。闘争をとおして培われた自信によって、人びとが防衛する場所に価値が与えられる——「その価値は、市場、国家、既存の社会のそれとは異なる基準によってはかられる」[11]

テリトリーの防衛は建設的なプロセスであって、暴動や大規模反乱よりも、必然的に多くの人びとをその展開において巻き込みながら、それらとは全く異なる時間性のもとで進んでいく。スタンディングロックと並んで、典型的な例がノートルダム・デ・ランドの「防衛すべき領域(ZAD)」だ。ZADはフランス・ナント郊外の空港建設の阻止に至った大規模なオキュパイである。闘争は、2008年から2018年の最終的な勝利に至る10年間にわたって徐々にテリトリー闘争を形成し、その後も今日に至るまで、テリトリーにおける集合的実験を育みつづけている[12]。参与的研究コレクティブであり、ヨーロッパのテリトリー闘争について広く分析してきた「モーヴェーズ・トループ(Mauvaise Troupe)」は、ZADにおける連続性の論理を強調する。

すぐに明らかになったのは、その湿地帯の防衛が、そこでの抵抗的なインフラの形式に住まうこと、それを育てること、そして、それを建設することと切り離せないことである。同時に、こうした努力のすべてが、既存の経済的・統治的構造と対立していることも明らかになったのである[13]

ここにおいてわれわれは、コンポジションがもつ複雑な時間性を垣間見ることができる——それは過去と未来の両方向に拡がり、速さと遅さを併せもっている。いっぽうで、価値転換と防衛は互恵的だ。というのも、防衛のための闘争においては、真理と集合的知性を新たにつくりだすことが必要になるからだ。防衛は、このようにして、運動が着実に成長するための推進力と切迫さを作ることができる。たほうで同時に、テリトリー闘争はハイブリッドな時間性を帯びてもいる——それは、数十年あるいは数世紀にわたって形成されてきた過去の敵対性の系譜を蘇らせ、継続させるものでもある。ノートルダム・デ・ランド空港への反対運動は、2008年のオキュパイに至る以前、40年かけて発達してきたものである。スタンディングロックの闘争は、数世紀にわたる反植民地闘争を基盤としている。このように、テリトリー闘争は、その本能的な創造性によって推進されながらも、見た目よりはゆっくりとした時間性を伴ってもいるのである。

ノートルダム・デ・ランドであれノースダコタであれ、長期にわたる闘争が拡大できたのは、経済と気候の危機とが、新たな政治的情況——正統性の体系的な喪失——と重なったことによる。このような正統性の喪失こそが、コンポジション的闘争の出現を理解する鍵となる。過去半世紀にわたり、プロレタリアートの支配力というものは、外的にも内的にも侵食されてきた。外的には、資本主義の再組織と不安定化によって、プロレタリアートは縮小・分散させられた。同時に、内的には、フェミニズム、反人種差別、反植民地主義の批判に直面して、労働者階級というアイデンティティにつねに潜んでいた矛盾が明らかになった。じじつ、現代の労働者階級は、フォーディズム的工場時代よりもはるかにフレキシブルな資本主義のうちに、組み込まれてしまっている。左派がもはや安定したプログラムを提示できないのは、ポストモダンの新自由主義批判の中で左派の「中核的」なマルクス主義的価値観が薄まったというよりも、むしろ、マテリアルなレベルにおいて、左派の基盤を構成しうるような、ひとつの共有された経験というものを、もはや理にかなった仕方で主張できなくなったためである。

荒野

われわれの組織化が直面している状況は、アンディ・メリフィールドがかつて「野生の都市」、「統制を外れた都市、縮小された都市」と呼んだものだ[14]。このような資本主義的再生産回路においては、定まった主体が、定まった方法で社会的財の配分を主張するための定まったありようが失われている。アトランタは、ニューサウスにおけるその典型だと言える。こうした都市において、左派の役割は、決まった真理を人々に教え、既存のプログラムに基づく定まった連帯へと導くことではもはやない。大衆的アイデンティティに基づく政治的構成はもはや不可能である。あらゆる可能なプログラムや戦略的基盤は、もはや一方向的ではあり得ず、透過的でなければならない——つねに外部へと開かれたものであり、ともすると外部によって定められるものでなければならない。実践的に言えば、こういうことになる——闘争においてわれわれが賭けるものが何であれ、そこにいる他者の経験や理由にも関心をもたねばならない。われわれの政治を基礎づける真理があるとすれば、それは、正統派が語ってきた「科学的」真理ではなく、どうしようもなく間主観的に位置づけられるような何かである。これより、あらゆる真理は状況的なものとなる。

冷戦終結後の草の根左派は、この内部崩壊を認識しながらも克服できなかった。一方で、1990年代から2000年代の活動家たちの戦略は、運動内部の差異を解決しながら連帯を維持するものとして、プログラム以後の政治を意識したフレキシブルなものだった。運動内部の異なる集団で発生する対立について、「科学的」弁証法による解消に訴えることもなければ、前衛の存在に訴えることもなかった。反グローバリゼーション運動は、対立によって運動を分裂させるのではなく、「戦術の多様性」の原則に基づいてサミット抗議行動を組織することを提起した——すなわち、運動の各集団は、それぞれが相応しいと考えるかぎり、個別に行動できるという原則である。このアプローチの問題点は、集合的な戦略や組織化の可能性を事実上放棄したことにあった。運動の各集団は、戦術的行動をとるにあたって、(古典的な「セント・ポール原則」によれば)「時間と空間における分離」の権利を与えられている。その結果として、運動全体のレベルで議論がなされるとき、その焦点は、「干渉し合わずにそれぞれの戦術を実行するにはどうしたらよいか」に置かれてしまい、「どうしたら全体として勝つことができるか」ではなくなってしまった。このようなリベラル的な「自律」の概念——分離の中での寛容——は、新自由主義的な市民のアトム的構造を反映したものでしかない。結局のところ、この戦略は、運動内の最も保守的な集団が裏口からヘゲモニーを握る手段として、利用されただけだった。痛ましい事例を挙げておこう。2003年、AFL-CIO(全米労働組合連合)の工作員たちは、「戦術の多様性」を口実に、大規模なブラックブロックをマイアミの辺鄙な土地に孤立させた。FTAA(米州自由貿易圏)への大規模抗議行動が始まる前に、時間も場所も遠く離れたところで、警察が多数のアナキストを鎮圧し逮捕することを可能にしたのだ。

いま、20世紀がわれわれに残した遺産は、悲しい二項対立だ。一方には、古典的な労働運動による単一的プログラム——差異の弁証法的解消、もはや絶滅した大衆的主体による指導——がある。他方には、現代のアクティヴィストのアプローチ——戦術の(戦略に対する)優越、差異の無-解決、勝利のための戦略的地平の放棄——がある。

戦略としてのコンポジションは、これらふたつの極のあいだを進もうとする。それは、消極的な根拠としては、あらゆる指導的アイデンティティの消失に依拠する——この状況は、資本主義の矛盾によって推進されるもろもろの運動を、創造的なクライシスへと駆り立てるものである。

しかし、コンポジションには、積極的な根拠もある。闘争へのプログラム的アプローチが対立の弁証法的解消——闘争の過程において新たな統一をもたらす総合が生じるという前提——に依拠していたのに対し、コンポジションの方法論は、運動の複数の部分が複数のままであると同時に、それらの複数のあいだに必要となる実践的協力関係を織りなしていくことを提示するのである。どんなアイデンティティであれ、運動内の指導的地位を説得的に提示することには、失敗してしまう。だとすれば、現代の闘争を形成する多様な社会的集団はある選択を迫られているということになる——自律的な無-関係(寛容な分離)のままでいるか、あるいは、勝利の地平を回復するために、関係的アプローチを発展させて、差異をこえた協働を可能にするか。後者は、何らかの譲歩を受け入れることをどうしても含んでいる。

「コンポーズする」という実践は、闘争内の社会的集団のあいだの関係性を維持し拡大することを意味する。そして「コンポジション」の戦略は、以下のような想定を指す——われわれは、多様な社会的アイデンティティにまたがる協働的な構造体をつくりだす場合にのみ、集合的な勝利を得ることができる。とはいえ、コンポジションは、たんに異なる主体の結合ではない——各主体がそれを通じてなおそのままであるような結合ではない。コンポジションの戦略が実際に機能するためには——運動のコンポジションを維持するためには——その構成要素のひとつひとつが、自らのアイデンティティからあるていど距離をとる用意がなければならない。これは、何らかの新たな弁証法的総合——特異性を消去すること——を目的とするものではなく、むしろ、勝つために、それぞれが、何らかの文脈に沿った形式にコミットしなければならないという前提である。文脈に沿った形式において、各主体は、運動内の他の集団によって、そのアイデンティティとコミットメント——通常の資本主義的政治において維持してきたようなアイデンティティ——を動揺させられることになる。このようにして、コンポジションは、「社会的統一」ではなく、実践的な機械を——その構成要素の部分的な脱主体化によって駆動されるような機械を——つくりあげるのだ。

例を挙げておこう。ダコタ・アクセス・パイプラインへの反対運動が拡大した2016年、運動は、スタンディングロック・スー族の領土権を求めるローカルな運動から、他の先住民族グループ、あるいは非先住民が、それぞれの物質的・政治的理由によってコミットする運動へと変化した。この事実をみさだめることは、スタンディングロック・スー族の利害や立場を軽視することを意味しない。というのも、この展開で重要なのは、運動のコンポジション的な論理こそが、これら全ての集団を相互に関係づけ、単独では想像もつかなかったような、巨大な勝利の地平へと導いたという点だからである。

さて、アトランタの事例に戻ろう。クリスティン・ロスが指摘するように、コンポジション的闘争には、特異的な社会的基盤をつくりだす傾向がある——コンポジションは「本質的には現場の同盟関係であり、相互変容とアイデンティティの解体を伴いつつ、どうじに物理的なテリトリー、すなわち生活空間の共有でもある」[15]。ロスのこの定義は、アトランタの森の状況を正確に記述するものであるように思われる。アトランタの運動はたんに「脱中心的で自律的」というもの——ただ、互いに離れた場所で、関係性も相互関心も削がれた諸要素を分散させているような運動——ではない。森の中のキャンプやそこに集まる様々な社会集団——小学生とその保護者たち、アトランタ外からの訪問者、レイヴァーたち、地域の黒人コミュニティのオーガナイザーや政治家、トランス活動家、自然派——は、脱中心性だけでなく、むしろその結合性と関係性によって彩られている。アトランタの運動において経験されることは、たんに自分の視点のもとでの経験や実践だけではなく、むしろどうじに、同じ運命を共有する他の集団が賭けているもの、リスクと感じるもの、貢献している事柄をひしひしと感覚することでもある。

「分離(separation)」とは、アメリカのような極度に疎外的・暴力的な社会ではデフォルトとなったものであり、ラディカルな運動の場面においてはなおさらそうである。かくて、上に整理したように、多様な集団や方法がひとつの闘争の中で結びあわされているという事実は、「分離」に対する例外を示すものであり、それゆえにこそ、絶え間ない説得を必要とするものである。多様な集団と方法を横断しつつ結びつけるということは、スペインのラディカルである「プレカリアス・ア・ラ・デリバ(Precarias a la Deriva)」の言葉を借りれば、「感情的な技巧(affective virtuosity)」——現代の政治のひとつの特徴をなすもの——を必要とする[16]。アトランタの運動の大部分は、森の外で行われている——このことは、根本から異なる性質をもつ諸運動を絶えず縫い合わせなければならないことを意味する。異なるリズムをもつ多様な運動——地域戸別訪問、都市部でのデモ、キャンプでの生活——を縫い合わせる必要がある。

実効的な連携を構築することは、とりわけ極度の分離が進む社会、肯定的な地平が欠如する政治において、ひどく困難であると言わざるを得ない。このように根深い無秩序が存在する時節においては、コンポジションこそが組織化の形態となる。ジョージ・フロイド蜂起の初期、ミネアポリスでは、コンポジションのありようが詩的な形で語られた——「われわれは同一化することなく結合し、互いを理解することなく共に動く。そしてなおうまくいく」[17]

先の見通しがたい現在において、アトランタの森で実践されるコンポジションの方法をいくつか整理しておくことは、有用であるように思われる。

① キャンプが次々に増殖している——それらは、文化や構成員において強い差異を有するにもかかわらず、無関心によって分離することを選ばず、むしろ一貫して繋がりを保とうとしている。これがつづいているのは、ひとつには、インフォーマルな連絡チームの努力——差異による衝突をリアルタイムで解決しようとする努力——がある。

② アトランタの運動において、戦術に対してオープンな姿勢が貫かれるのは、たんに戦術の多様性を求めるからではなく、むしろ、異なる集団の異なる戦術の相互作用の可能性を重視しているからである。これによってこそ、(森の破壊を止めるための)法廷闘争と森の前線での警察との絶え間ない衝突が共存する。そして、これによってこそ、多様なサブカルチャーに属する人びと——野鳥観察者、レイヴァー、学者、活動家、歴史マニア、パンクス、テンダークイア、大工、等々——が、それぞれの資源と欲望に基づいて運動へと参加することが可能になる。

③ キャンプ建設においてオープンな手法を維持することで、運動は、実践的・現場的な活動を優先することになる。このようにして、運動は、イデオロギー的な問題や対立を解体し、ロスが指摘したような「脱アイデンティティ(disidentification)」を可能にするのである。これによって、運動の取り組みの創造性が高められ、活動家たちの実践の閉鎖性が緩和される。このような機能をまさに果たしたのは、駐車場を占拠したキャンプにつくられたキッチン「ウィローニー人民公園」(2022年12月13日に警察と企業のブルドーザーによって破壊されたが、すでに再建中)であり、それは、2022年の秋のあいだ毎週水曜日にコミュニティディナーを開催していたのだった。

④ 土地の回復と生活の場の構築を強調することは、広範な価値転換をもたらすことができる——かかる価値転換は、組織化と連携のための新しい拠点を鍛造しつつ、まさにこの場所——特異性のもとでの場所——を守ることで進んでいく。森の活動家たちが「旧アトランタ刑務所農場」の血に塗れた人種差別の歴史を暴き出そうとすることは、過去の闘争と現在の闘争とのあいだの新たなつながりをつくりだしている。果樹や食用多年草の植樹活動は、アトランタのテリトリーがもつ持続性の力を明るみに出す。森では新たな慣習がつくられ、新たな結合と友情の形式をもたらしている。

⑤ 複数の集団がコンポジション的な知性を示している——ほんとうの政治的努力と感情的技巧を駆使しつつ、コンフリクトを解決し、新たな集団を運動に引き込んでいる。そのひとつの例は、猥褻グラフィティをめぐる議論だ。この問題は、会話と議論をつうじて、そして——重要なことに——絶え間なく新しいスローガン、タグ、アートが描き加えられることによって、徐々に解決されていった。そこでは、単純に猥褻なタグを検閲しようとする実りのない手法(いかなる名のもとで検閲できるだろうか?)は取られなかった。コンポジションはつねに、内部での矯正よりも、新たな諸集団を結びつける積極的プロセスをつうじて機能する——それは「そうだね、ならさあ・・・」[18]の方法だ。グラフィティよりも重要だったのは、この地域の先住民であるマスコギー族を、歴史上の追放から二世紀を経て、森へと帰還するのを支援する活動である。この活動によって、重要な儀式、出会い、テリトリーについての知識の伝承がもたらされた。

⑥ 粘り強い感覚、あるいは、運動をゆっくりと進めていくことは、警察による強制排除に対して冷静かつ決然と対応することを可能にしただけでなく、国内の政治シーンの喧騒に対して悠然と構えることを可能にした。全国的な左派組織が、2020年の運動の盛り上がりの中で掲げた反人種差別の公約——すぐに選挙戦略上の問題となった公約——を無かったことにしようと、右往左往する無様な姿を晒したのとは対照的に、アトランタの運動は、そのテリトリー的本性によって、選挙シーンとは完全に異なる時間軸のもとで動き、警察権力に対する拒絶を貫くことができた。

ここまで整理してきたように、アトランタの森の運動が、広範な政治的危機、あるいは急速に進む社会的コンフリクトという時代的経験のもとで、構築されているのは明らかだろう。かの運動は、なるほど資本の停滞と危機という時代的基盤のもとで動いているかもしれないが、それでもなお、独自のコンポジション的時間性とロジックのもとで展開しつづけている。コンポジションとは、ゆっくりとしたロジックだが、しかし、ひとつの政治的地平を芽生えさせることができるものである。その地平は、惑星的な——今までは全て負けに終わった——闘争の連鎖から生まれながら、この流動と逆流の時節を撃つものである。スタンディングロックは、インフラ建設の問題を政治化させると同時に、植民地主義との連続性を明らかにすることで、気候運動の地平を新たに形作った。これと同様に、アトランタは、たんに反動的な状況からの逃げ場だというわけではなく、ボトムアップのエコロジー的回復力と警察廃絶主義の政治の試金石となっている。この運動のコンポジション的知性は、たんにコップシティやハリウッドディストピアと対決するものではなく、むしろ、その背後に潜んでいる資本主義の中核——プレカリティを暴力的に強制しながら、搾取の新たな基盤を作ろうとする構造——と対決しているのだ。


[1] Jack Crosbie, “The Battle for Cop City,” Rolling Stone, Sept 3, 2022. Online here.
[2] David Peisner, “The Forest for the Trees,” The Bitter Southerner, December 13, 2022. Online here.
[3] Endnotes Collective, “Onward, Barbarians.” Online here.
[4] Phil Neel, Hinterland, Reaktion Books, 2018, 155.
[5] Neel, Hinterland, 169.
[6] Neel, Hinterland, 156.
[7] Neel, Hinterland, 175.
[8] Neel, Hinterland, 175.
[9] Kristin Ross, “The Long 1960s and the ‘Wind from the West,’” Crisis and Critique, Vol. 5, Issue 2. Online here.
[10] Joshua Clover, Riot, Strike, Riot, Verso, 2016.
[11] Ross, “The Long 1960s,” 325.
[12] Mauvaise Troupe. “Remaining Ungovernable.” Lecture at the IU “Undercommons and Destituent Power” Conference. Online here.
[13] Mauvaise Troupe, “Remaining Ungovernable.” For a broader portrait, see Mauvaise Troupe, Constellations: Trajectoires révolutionnaires du jeune 21e siècle, Éclats, 2017
[14] Ross, “The Long 1960s,” 331.
[15] Andy Merrifield.  The New Urban Question, Pluto, 2014, 17.
[16] Precarias a la Deriva. “A Very Careful Strike.” Online here.
[17] Anonymous, “The Siege of the Third Precinct in Minneapolis,” Crimethinc, June 10, 2020. Online here
[18] online here.